江戸時代以来、久留米市田主丸町船越の小川天満宮に伝来した史料群である。筑後国竹野郡小河荘を本拠とした国人小河氏が大友氏から発給された中世文書19点及び近世に成立した小川天満宮の縁起1点からなる。小河氏が史料上現れるのは、永享6年(1434)に比定される「大友持直預置状写」である。持直は大友氏第12代当主で、小河藤次郎等3名が筑後国竹野郡職を預け置かれている。本文書には、大友氏歴代当主の発給文書が残されている。「大友宗麟感状」は、義鎮が「宗麟」と名乗り、初めて使用した花押を有する文書である。宗麟のこの花押をもつ文書は、永禄5年(1562)6月から同年12月までの6か月間に発給されたもので、現存数が少なく貴重である。「大友義統知行預状」は、天正6年(1578)の耳川の戦いで大友氏が島津氏に敗北後、龍造寺隆信が大友氏の領国に侵攻した状況を伝えている。大友氏の発給文書はこれ以降残されておらず、小河氏はほどなく大友氏から離反したようである。寛保2年(1742)の年紀を有する小川天満宮の縁起によれば、小河氏は大友氏を離れた後、竈門山、英彦山を経て、小川村に還住したとされ、本文書が小川天満宮に伝来した経緯を知ることができる。本文書は、史料が残りにくい中世国人層における地域支配の状況を明らかにする史料である。また、表装等が施されず、文書作成時の料紙の折り方や封式がそのまま残されており、古文書学上も貴重である。