17世紀初頭に、小倉藩主の細川忠興が上野焼の創始者である尊揩に開かせた窯と伝えられ、御庭的な性格の窯である。地上式割竹型登窯で、焚口と焼成室4室の計5室からなるが、1・2室は削平されていたものの、その他は残存状態が良い。焚口から窯尻までは13mを測る。都市計画道路の建設に係って昭和57~58年(1982~83)に調査され、その後20mほど離れた箇所の覆屋に移築保存された。移築した窯跡とその出土遺物474点が指定されている。