鷹尾神社は、福岡県柳川市鷹尾に所在し、中世には筑後国瀬高下庄の鎮守、同国一宮高良大社の別宮であった。本文書は、同社及び大宮司職を世襲した鷹尾家に伝来したもので、承元年中(1207~1210)頃の後鳥羽院庁下文案以下、昭和に及ぶ計341通を存する。うち121通は中世文書で、そのほとんどが鎌倉時代にさかのぼる。瀬高下庄は、大治6年(1131)に瀬高庄が上・下両庄に分かれて成立した庄園で、平安時代後期に、藤原道長の曾孫俊忠より伝領した徳大寺左大臣家が、待賢門院に寄進し、後にその御願寺である円勝寺領となった。鎌倉時代前期には、下庄内鷹尾郷の地の開発が進み、鷹尾別符が成立したと考えられる。鷹尾神社では、鎌倉時代の初めに紀元真が大宮司職に補任されて以来、紀氏(鷹尾家)がこれを世襲した。近世に入ると、柳河藩主立花家によって社殿の修理等が行われている。文政9年(1826)、立花家の祖廟として創建された三柱神社の神官を命じられた鷹尾家は、後に三柱神社に転居し、戦前まで鷹尾神社の社務を兼帯した。こうした鷹尾神社の歴史を反映して、文書中には庄園支配や社務職に関わる文書が多くみられる。特に平安時代後期以来の鷹尾神社の祭礼、造営に関する文書がまとまっており、在地の鎮守社における舞楽などの実態が明らかになることが大きな特徴である。近世・近代文書には、(年未詳)3月16日付神楽用具借用覚など、中世以来行われていた鷹尾神社の祭礼に関わる文書のほか、近世の神社支配の在り方を考えるうえで重要な文書が少なくない。また、すでに原本が失われている中世文書の内容を伝えた写本も含まれている。本文書は、平安時代以来の在地の神社祭礼などが具体的に明らかになる神社文書として希有な例であり、中世の神祇信仰や芸能を知るうえで価値が高い。